日本脱カルト協会

 

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書評 「自由への脱出」

著者 マデリン・ランドー・トバイアス、ジャンジャ・ラリック/訳 南暁子・上牧弥生

書名 自由への脱出−カルトのすべてとマインドコントロールからの解放と回復 

出版社 中央アート出版社 1998年発行

本書はカルト経験者、およびカルト経験者を理解しようとする者にとって極めて有益な、愛すべき“How to本”である。破壊的カルトについての書物はここ数年でいくらかは増えてきた。しかしながら、そのほとんどは事件性を追うもの、カルトの構造やメカニズムに言及したもの、及び当惑する当事者家族の側に立ったもので占められた。そのような書物に対し、「自分の経験を“知識として”は理解できた。でも、自分の気持ちの不安定さにどう対処すればいいの?」という気分を味わった脱会当時者は少なくないのではないだろうか。本書はまさに、そこに焦点を当てた、日本語で読めるほぼ唯一の書物である。

全体は4部で構成されている。第1部はカルト現象について知的理解を促すものである。導入は、カルト脱会者が元の仲間に宛てた手紙で始まる。そこには、脱会者が抱く、かつての仲間への懸念や愛着がほとばしっている。脱会者は、自分を“落伍者”としてしか見てくれないだろう元の仲間へ、それでも一縷の望みをかけて、親愛の情を示す。組織は脱会すると不幸のどん底に陥ると言い聞かせたが、実際は脱会後の今、自分がとても幸せで、自尊心を持って生活することができていると仲間に伝える。最初のこの手紙は、回復した脱会者の姿を象徴しているかのようだ。

第1部ではカルトの特質、種類、勧誘方法や入会の様相、組織に引き込むためのテクニック、脱会時の様相、カルト・リーダーの特徴などに触れる。前半はカルトのメカニズムについてコンパクトに記述されているので、カルト現象を詳細に理解するには、他の好著(「マインド・コントロールの恐怖」スティーブン・ハッサン、「マインド・コントロールとは何か」西田公昭)を併用するとよい。本書において特徴的なのは、ここに「一対一のカルト」なるものが記述されていることだ。これはいわゆるドメスティック・バイオレンス、つまりカップルや親子間で起きる暴力的支配関係であるが、著者らはこれも“カルト的関係”として範疇に含んでいる。厳密に言えば、関係の形成過程、全体構造や機能等に異なる面もあるのだが、ここで著者らが一緒に扱っている理由は、おそらく当事者が被り、認識するダメージが類似しているからであろうと推測する。これは、組織の構造や機能を外側から説明してきたこれまでの著作には見られない点である。評者はアメリカで行われたカルト脱会者のワークショップに出席したことがあるが、そこにはドメスティック・バイオレンスの被害者も出席しており、他のカルト脱会者の話に始終うなずき、経験を分かち合ってあっていた。回復過程にあって、経験を共有できる相手であることには違いないのだろう。

勧誘過程の説明には、ウィットに富んだ工夫がなされている。カルトが予めインフォームド・コンセント(告知に基づく同意)を取っていたら、あなたはカルトに入っただろうか?という問いかけがなされ、実際に入会契約書なるものが(もちろん、架空のものだが)掲載されているのだ。本書は一貫して、カルト経験者がどのような構図に巻き込まれたかを理解させることに重点を置いている。脱会して抑うつ感、挫折感にさいなまされる当事者に、問題の原因はあなた自身にではなく、あなたが巻き込まれた環境にあると説き、それを理解することが回復にもっとも有効な手立てであることを示すのである。この契約書も、そのための手段の1つである。

回復の項では、入会前、在籍時、脱会後の3時点に分け、どのような側面がダメージに関わっているかを整理する方法を示している。カルトのメカニズムを説明する立場にある者は通常、個人の性格といった個別の側面より、どのような影響に晒され、どのような環境に置かれたかを重視する。カルト現象への理解は、個人や育った家庭に問題があるから巻き込まれたのでは?という素朴な見方から、このような環境メカニズム重視理解へと進化、修正してきたのである。ここではその理解に立った上で、入会時の年齢や入会前の情緒的問題、性格、在籍期間、心理操作の強さ、在籍中の家族との関係、脱会後の処置等といった個別の事情がダメージにどのような影響を及ぼしているかを査定する必要を説いている。第4部には、脱会者が治療を受ける際重要なのは、脱会したのがカルトと定義されるかどうかではなく、そこで特異な反応を示したかどうかであるとの臨床医の言及が記されている。当事者のダメージとそこからの回復に焦点を置いた場合、ジャーナリズムや社会学といった外側からの切り口とは、物の見方において自ずと一線を画すことになる。当事者が傷を癒すことと、個別組織を評価し、その問題性を社会に訴えることとは区別して考えなければならないだろう。

第1部の最後にはカルト・リーダーに共通する精神病質者としての特性を項目に分けて説明している。この章は、当事者が自分のリーダーからの影響や幻影から脱するためにその素顔を知り、二度と同じような組織の毒牙にかからぬよう、相手を見極めるため設けられている。

第2部は癒しのプロセスが描かれ、本書のもっとも特徴的な部分となっている。この部も脱会者の手記から始まるが、その内容は、所属していた組織から別の組織へ真理を求めて乗り換えた後、前の組織に問題性を見出し、支払った代金を返金請求しようとする過程で偶然カルトについての情報を手にしたところ、後に属した組織にも問題があることに気付いてしまったという、ショッキングなものである。手記の著者は後の組織にも問題があることをうすうす感じながら、それを自分で認めるのがどれだけ大変な作業だったかを述べている。カルトを非難している人がカルトに入っているという現象は、しかし、それほど驚くに当たらない。欺きの本質が見えないところにこそ、カルトの問題性があると言えよう。本書はそのことへの気付きを何よりも重視している。それが回復とカルト予防に不可欠だと考えるからだ。

ここでは自分の心を取り戻し、ダメージを取り除くために、決断力の衰えや“フローティング”と呼ばれる独特の意識変容、強迫観念、二元的思考、認知の歪み等、カルト脱会者に通常見られる状態を説明し、その対処法を極めて具体的に示している。いわば処方箋の宝庫である。また、カルトが感情をどのように操作し、利用したか、その結果、どのようなダメージを被ることになるかを説明し、そこからどう脱却するかを示す。その範囲は喪失−帰属集団から時間、無邪気さ・純真さ・理想主義、人生の意味、家族や愛する者、誇りと自尊心に至るまで−、挫折感、罪と恥の意識、抑うつ、恐怖心、怒り、精神異常への恐れ、許しなど事細かに分けて言及され、もし危害を加えられる等の危険性があれば、どのようにして身を守るかに至るまで方法が記されている。

後半には生活を立て直すために、非常に実際的な方法が述べられている。最初に身体のケアといった極めて現実的な問題を扱い、カルトでは肉体的な健康さが侵食されることに気づかせる。ともすれば抽象思考に走りやすいカルト脱会者には、意外と見落としやすい部分ではないだろうか。本書の実用指向は見事なもので、ここではカルトで身につけた菜食主義を脱会後も貫きたい当事者のために、まともな菜食主義のレシピはどこから手に入れられるか、実際の書籍名まで記している。その他、医学、栄養学、スポーツ等に関する情報の取入れ方も指南している。その後には、もう一度自分を信じること、フィッシュボール・イフェクトと呼ばれる脱会者特有の周囲の人間との関係の築きにくさ、カルト体験を話すことの重要さ、以前の絆を取り戻すこと、アイデンティティの問題を取り上げ、人間関係の修復に焦点を絞って社会復帰の方法を述べている。

次には、将来への挑戦として、孤独や信頼、親密さとどう付き合うかの方法が述べられている。もう一度、人を信頼できるようになること、デートとセックスについて−カルトは性を歪めて扱うことが多いため、著者は脱会者に性教育を勧めている−、他人のあいだに一線を引けるようになること−カルトではプライバシーを制限するため、自他の境界線が曖昧になっている−が記され、さらに人間関係を評価するチェック・リストなるものが記載されている。また、信念の問題を取り上げ、魂のレイプと表現されるカルト体験によって、信念を持つことにどのような影響を被るか、新たな信念を構築するにはどうしたらよいかが記されている。援助者は脱会後しばらくの間は改宗を勧めないものであることを記し、それでも何か新しいものに加入しようとするときには、カルト的性質を帯びていないか確認する方法を述べている。また、職業の問題に触れ、自信や自尊心を損なわれた脱会者がどのように社会に自分をアピールし、社会参加していけるかにも言及している。カルトの中で身に付けたことが仕事の上で活かせるかどうかを評価し、カルト経験をマイナスとだけ捉えないように著者らは促す。自分の適性を知るためにどのような情報源が利用できるかを示し、どういう服装をしたらよいかはファッション雑誌で調べる、手持ちの洋服がなければ人から借りて面接に行くなど、具体性に富んだアドバイスが続く。また、履歴書の長所や技能として記入できるであろう、カルト経験から得たプラス面に言及し、そこには「自制(自己訓練)、販売、資金集め、人前で話すこと、誠実さの価値、人づきあいの能力や協調性、時間管理、忍耐力、生存競争に勝つ能力」等々、カルト脱会者にはどこか思い当たる節があり、思わず苦笑すらしてしまいそうな項目が並べられている。そして、カルト生活のために空白になってしまった時間を履歴書でどのように表現するかという、“創造性を必要とする”問題にも触れ、社会に疎い脱会者に対し、雇用に伴う特典や条件を知る情報源も示している。

次は性的虐待や暴力について述べられる。カルトの行う性的虐待は、日本ではあまり報告されることがない。しかし、それは一般のレイプ件数が氷山の一角であるのと同様、報告されにくい事柄であるからに他ならず、知られないところで残酷な被害はいくつも起こっているものと思われる。そのような、「人に言えない、発覚しない」ことほど、実は被害としては深刻なのである。暴力や犯罪行為が相手を操作するために用いられ、暴力や犯罪行為に実行者、観察者として巻き込むことで共犯関係を形成し、組織にがんじがらめにしてしまうと言及されている。

さらに、自己教育−自分の状態、状況を理解するために有益な資料に当たり、学習すること−、自己表現−体験を書き記す、自伝の形でカルト以前の自分から現在までを振り返るなどし、カルト経験を人生のすべてではなく、ひとつの章と見なせるようにする−、サポートネットワーク−他の脱会者と出会う−の重要性が説かれている。サポートネットワークは脱会者に非常に有益であり、脱会者がお互いを癒し、励ましあう力を持っていることを確認できる有効な手段である。カルト経験を一人で考え続けているより、人に話した方がバランスの取れた見方が出来るようになるとも言及されている。

また、専門家の援助を受けることについても記されており、公的援助からカウンセリング−脱会カウンセリング、聖職者のカウンセリング、心理カウンセリング、心理療法等に渡る−に至るまで、詳細に述べられている。さらに、自分にあったカウンセラーや治療者を選ぶ基準が具体的に示されており、治療を利用したカルト的関係に再びはまることのないよう注意を呼びかけている。

法的救済については、養育権−アメリカでのカルト脱会者の平均年齢は高く、組織内で家庭を築いている事例が少なくない−、犯罪訴訟、民事訴訟について記されている。カルト被害を訴える裁判は世界中どこでも苦戦を強いられている。そのため、ここでは訴訟を起こすことのメリット、デメリットを述べ、それが被害からの回復を害する場合もあることを記し、その上で判断するよう呼びかけている。

この第2部ではカルト被害からの回復の手立てについて、より具体的、実際的な方法が述べられている。カルト問題における心的ダメージは非常に大きいため、見る側はつい、心の問題に終始してしまいがちである。しかし、カルトはその人の人生を丸ごとさらってしまうゆえ、カルトの実害とは決して抽象的なレベルの問題ではなく、身体や生活基盤に根ざしたところまで侵食してしまうのだ。日本でカルト問題に携わる人は現在、宗教者、弁護士、心理学者、精神科医などに細々とではあるが広がりを見せている。しかし、アメリカで見られるようなソーシャル・ワーカーの姿はほぼ見られないのが実状だ。行政が介入するのは、誰かの命が犠牲になってからのことである。しかし、カルト脱会者は生活基盤という具体的なものにダメージを受けている場合が多い。そして、そのことが心理的にも影響を与え、脱会の意志を阻んだりするのである。日本でも、生活基盤に密着した援助者が増えることを評者は望む。

第3部は脱会者9人による手記で構成される。各々の経験が個性に彩られ、同時にほぼ共通する問題を抱えていることを、この部は示している。個人の属した組織は心理治療、政治、宗教、ニューエイジと多岐に渡り、滞在期間は概ね10年を超えている。青年期に入った人もいれば、組織で生まれ育った人、子どもをカルトに巻き込んだ人もいる。9つの個性と人生が記されているため、脱会者は自分の経験に近いものから、あまりよく知らなかった、あるいは感じ取ることのなかった新奇な経験に至るまで知ることができるだろう。いずれも皆、苦しんだ経験を通して、しかし希望に満ちた魅力的な手記を記している。

第4部は特殊な問題について記されている。まず、カルトの中の子どもたちに触れ、外の世界で人格形成をしてからカルトに入った者とは別の、深刻な問題を抱えていることに焦点を当てる。カルトの子どもたちは一般社会とカルトに対し、2つの顔を使い分けなければならない。しかし、一般社会のやり方を十分習得するには、あまりに環境が制限されている。かくして、子どもは一人ぼっちで外部社会に投げ出され、不適応に悩まされることになる。また、カルトでは健康や医療が軽視されるため、大人以上にそれらの配慮が必要とされる成長期に決定的な処置を欠いてしまう。身体的、情緒的、性的虐待の犠牲になりやすいのも、立場の弱い子どもたちである。第2部にも触れた性的虐待が子どもに起きれば、どれくらいの重荷を負うことになるかは想像に難くない。また、子どもたちはカルト環境によって、心理的に重大な問題を抱える。恐怖を植え付けられたり、虐待や恐怖体験の結果、怒りの感情をコントロールできなくなったりする。残酷な経験と向き合えず、否認することで生き延びなければならない。そして、大人になって一般社会に馴染んだとしても、他の人と共通体験を分かち合うには、あまりに制限され過ぎたことに気付き、喪失感を覚えることになるのである。

カルトで育って脱会した者はしばしば、経験を分かち合い、励ましあう脱会者同士の中でも孤立感を味わう。彼らには、戻るべき元の人格など最初からないからだ。子どもの頃の思い出はカルト一色であり、それを懐かしんで悲嘆に暮れることもある。評者の知人で、生まれたときからカルトに所属していた人は、自分は亡命者だと表現した。悲しむべき過去、しかしすべての思い出や愛着もそこにあるという、アンビバレンツの中で生きているように見えた。

次にはセラピー(治療)に関する問題が取り上げられており、非常に有益な内容となっている。ここには興味深い事例が記されている。カルト的関係の最中に苦痛を覚え、本人もそれがカルト的環境の影響とは理解せずに治療者を尋ねたが、治療者は本人の過去に問題があったのではないかと捉え、治療は上手く運ばなかった。3度目の治療者にかかっているとき、カルト的関係の相手が詐欺罪で逮捕され、クライエントはやっと、自分が異常な環境にあったことを自覚するようになる。しかし、治療者はクライエントの主張を受け入れず、あくまでもクライエント側に問題があると捉えたので、クライエントは治療を打ち切った。また、ある治療者は、クライエントが子どもの頃、性的虐待に遭ったのではないかと尋ね、催眠をかけた。次に行き着いた博士は、マインド・コントロールについて理解を示してくれそうだったので、治療を同意した。博士は催眠を使って子ども時代を探ろうとした。博士は、クライエントがカルト的関係に巻き込まれ、影響を受けやすかったのは子ども時代のトラウマのせいだと解釈したのである。その後、催眠による退行を経験するうち、離人症や現実喪失感といった、それまでになかった症状を呈するようになってしまった。

診療の見立てを誤ると、どんなに大変なことになるかを示した一例である。ここで著者は、脱会者の現在の症状を説明するために子ども時代に原因を求めることのリスクを挙げている。心理療法の場において、子ども時代に焦点を当てる方法は極めてスタンダードだが、カルト経験者特有の症状と子ども時代の影響とは区別して治療を行わなければならない。今のところ日本には、カルト経験者を理解し、治療することのできる機関はあまりにも少ない。カルトに対する知識や理解を欠いたまま治療に当たれば、多かれ少なかれ上記のような状況が繰り広げられるであろう。上の例では最終的に、催眠治療が仇になった。カルト経験によって不当に深められた催眠への適性に拍車をかけ、解離を生じさせてしまったからだ。さらに、脱会者は依存性が高まっているため、治療者と適切な距離を取るのが難しい。それを治療者側が自覚せず、自流の解釈で治療を推し進めることで、二次的被害は増大する。治療者はカルト経験によって引き起こされた症状を熟知して、疾病との関係を探る義務を負うのである。これらは日本ではまだほとんど理解されていないが、認識を広める必要性を評者は強調したく思う。

本書はアメリカ社会でのカルト問題を扱ったもので、著者マデリン氏は東洋思想と心理療法の、ジャンジャ氏(正確には「ヤンヤ・ラオリッチ氏」)は政治カルトからの脱会者である。アメリカのカルト問題援助者はカルト経験者の占める率が高く、彼らがオピニオン・リーダーになることも多い。カルトで人生を半ば破壊されても、社会全体の風土として再起のチャンスが与えられやすいこと、脱会者を援助するシステムが形成され、自尊心を損なうことなく生きていける環境があること、カルト経験を恥と捉えず、公言できる土壌が日本よりは出来ていることなどが、それらの傾向を生み出しているのかもしれない。

本書は極めて有益だが、アメリカ社会を反映したものであるゆえに、日本社会で読まれるには限界を感じる点も多々ある。まず、メンタリティの違いである。カルト問題は他者と自分との関係を扱うが、そこにおける“個人”に対する感覚の違いなどは相違があるように思える。感情表出や自尊心のあり方なども異なるだろう。さらに、事例化過程の違いによって生み出される差異もある。日本では、入会してしまった子どもを親が心配して問題が発覚するパターンが続いている。しかし、アメリカでは、70年代当初こそ親が大学生の子どもを心配するなどしたが、その後、様々な事情によってその傾向は収まり、個人が自主脱会するケースがほとんどになった。よって、誰が心配し始めるか、問題であると認識し始めるかによって、当事者の問題の受け止め方や個人感覚のあり方は規定されてくるように思う。また、個人が組織のおかしさに気付くには時間がかかり、アメリカの脱会者年齢はかなり高い(すなわち滞在期間が長い)ように見受けられる。カルトの中で家庭を持つケースも少なくない。このことも、事例化の様相を変動させる要素の1つであろう。親が騒ぐか、本人がおかしいと思うかの違いは、社会の個人感覚の違いを反映しているとも言える。このように、カルト問題という共通項を扱うにしても、社会の文脈によって問題の捉え方が異なってくるのも事実である。

本書には、カルト経験者の手記や体験談がふんだんに用いられている。それは、それを見聞きすることが脱会者にとってもっとも回復に効果があることを念頭に置いているからであろう。であれば、私たちは“ジョン”の物語より“太郎”の物語に、より現実味を感じるのではないだろうか。語られる社会が日常接しているものであった方が、より身近な話に感じられないだろうか。

さらに、例えばカルトの分類1つをとっても、いかにも翻訳本であることを意識せざるを得ない部分がある。東洋思想のカルトという分類があるが、これは日本で言う仏教、密教、神道系の思想を持った組織と考えられる。アメリカ社会ではキリスト教が「宗教」であり、東洋系の宗教思想は別次元の異文化であると認識されるため、このような分類がなされるのである。また、政治・人種差別・テロリスト、悪魔崇拝・黒魔術などの分類も、日本ではあまり馴染みがない(日本に存在しない、という意味ではない)。馴染みがないので個別事例にも現実味を感じにくい。

もっと直接的な部分では、本書があまりに実用主義であるために、そこに記された組織や書籍等の具体名が日本ではほとんど有効性をもたない点が挙げられる。日本の読者、しかも当事者であれば、日本の情報を直接手にしたいと思うことだろう。

これらを鑑みると、日本社会の文脈に沿った、本書に準じる書籍の発刊が必要なのではないかと評者には思えるのである。

本書は、脱会当事者とカウンセリングや治療に携わる者の必読書である。本書が愛すべき“How To 本”であるのには意義があると評者は考える。脱会当事者はしばしば、思考を継続するのに困難を覚える。How to 本は情報が一箇所に固まって簡潔に記されているので、脱会者の読解能力にも適する。また、その時々に苦しんでいる症状に対し、明確な処方箋が与えられ、情報処理に過大な負担をかけない。カウンセラーや治療者にとっても同様で、忙しい業務の中、項目ごとに簡潔に情報を整理することができる。これで全てがカバーできるわけではないのだが、入門としては極めて簡便で有益な書物であり、広く読まれることを期待している。

(一橋大学大学院社会学研究科 戸田京子)

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