日本脱カルト協会

 

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書評 「予言がはずれるとき」

著者 L. フェスティンガー、H.W. リーケン& S. シャクター(著)/水野博介(訳)

書名 予言がはずれるとき 

出版社  勁草書房

 本翻訳書は、“When prophecy fails”(1956年)を原典とする。著者はFestinger, Lieken, & Schachterである。Festingerは本書を出版した翌年に、有名な「認知的不協和の理論」を提出した。つまり、あの卓越した理論は、本書において行われたある宗教集団の活動についての参与観察研究の成果を発表した後、その成果を十分に踏まえて提唱したものであった。社会心理学におけるこの代表的理論が、われわれの多くが行っているような実験室実験だけではなく、本書のような生々しい現場研究によってしっかりと支えられている点を認識しておくことは、われわれが研究を進めていく上でとても重要なことであると評者は常々考えてきた。

 本書でおこなわれた研究は以下のような現象を対象にしたのであった。ある小さな宗教団体がこの世の破滅を予言したが完全にはずれてしまう。しかしそのあと、信者はその予言についての信念を捨てるどころか、より一層強固なものとなり、熱心に布教活動をはじめた。この研究の目的は、そのような現象が起きる条件を予測し、確認することにあった。 本書で分析された、予言がはずれた時の信者の心理状況は、オウム真理教、統一協会、エホバの証人などの終末思想を説いてメンバーを増やしてきた現代の新宗教の信者心理に投影することができよう。

 では、本書の展開にそって中身を紹介しよう。まず、第1章「成就しなかった予言とメシアたち」では、予言がはずれても信念が揺らぐことなく、さらに改宗を進める布教活動が活発になる五条件を挙げている。そして条件にかなう事象の予測を説明するために、認知的不協和理論のコアの部分が簡単に説明される。ここではもちろん理論名も登場しないで、それとなく不協和現象が解説される。そして本書で行った研究はこの五条件に適切な根拠を与えるためのものであったと研究目的を位置づけ、歴史的データに見られるいくつかの該当事例を紹介している。この節は読者に、「世紀末」の現在あちこちで生じている終末論的世界観を背景に展開している宗教運動を思い起こさせ、たとえそれが1世紀以上も前のデータであっても極めて現実感の高い現象であることに気づかされよう。しかし評者は、章末に、そのような歴史的データでの論証の不十分さを提起して本書で行った事例研究の必要性について理由付けをおこない、この研究事例についての宗教的概要を呈示するのである。

 第2章「外宇宙からの教えと予言」では、教祖のキーン夫人がいかなる経過で予言者となったか、そして彼女自身がそのことについてどのような経験から確信を深めるようになったかが、最初の信者2人との出会いを重視しながら説明されている。この章全体のあらましは彼女が「空飛ぶ円盤」との交信を自動書記によって行い、大洪水の予言をするに至る過程についての分析である。予言者本人と二人三脚していく人物の役割が、非常に重要であることを理解させてくれる。その人物が科学的訓練を受けた医師であり社会的信用があったことも重大であろう。オウム真理教でいえば、麻原教祖と最高幹部の一人であった故村井秀夫氏のような関係か。また著者は、彼女の思想の内容に注目し、それが決してユニークなものや新しいものでなかったこと、つまり、当時の大衆紙ではある程度の支持者がいた点を指摘している。このことは、まさしく昨今の日本でも隆盛を見ている新興宗教の教義を彷彿させてくれるのである。

 第3章「地上に言葉を広める」では、予言者や側近ともいえる最初の信者らのとった具体的行動を示しながら、予言がどのように広まっていったかに関する説明がなされている。そして、いよいよ著者自身がキーン夫人に会いに行ったときの様子、著者が送り込んだ参与観察者たちのレポートが登場する。さて彼らの布教活動は、選択的であり、信念を受け入れる準備のある者に限っている点が強調されている。この点では、「マインド・コントロール」と呼ばれるような非道徳的な社会的影響力を駆使している近年の破壊的カルトの布教方法とはちがう。しかしそれでも、信者たちの予言に対するコミットメントはかなり高かったことがうかがえる。彼らは、財産を他人に分け与え、仕事を捨て、学生は勉学を放棄し、信仰を共にしない周囲の人々とは仲違いした。

 第4章「長い間、指令を待って」では、信者の活動に対する外部からの干渉が生じるようになる一方で、自らを「選ばれた者」としてのエリート意識を高め、一貫して積極的な布教活動を行うことなく「(信じる)準備のある者」にだけしか伝えなかったと述べられている。キーン夫人が自動書記で受け取るあいまいなメッセージを解釈していく。そして信者の中にトランス状態になる者が現れて別の情報源となり、グループはさらにあいまいで神秘的メッセージで満たされるのである。さらには別のUFO愛好家が登場し、ある信者には予言の妥当性を高める働きと、同時に別の信者には動揺を与えることになる。個々の信者は、具体的なメッセージがない中で認知的不協和を低減するさまざまな解釈を行う様子が報告される。そして予言の日まで残り1週間ばかりとなって、ついには、メディアに望まない報道をされ、嘲笑を受けるはめになるのである。

第5章 「救済の差し迫った5日間」では、選ばれた者たちだけが空飛ぶ円盤にピックアップされて大洪水の難を逃れるという予言の日(12月21日)がいよいよに差し迫った頃の様子を克明に説明している。信者たちが、約束の期日に近づくにつれて、いかに真剣にピックアップされる準備を整えていったか、そして次の指令を待っていたかがうかがえる。予定期日がギリギリに迫った中で、参与観察中の著者は不敵にもピックアップされる準備ができていない事態を故意につくり、その時の信者のパニックぶりを観察するといった憎らしい実験も行うのである。そうした経過の中で、信者たちは幾度もピックアップされるメッセージを受け取り、それに従ったが、空飛ぶ円盤は現れなかった。すなわち予言は何度も外れ、最終的な予言も緊張の張り詰める中ではずれていった過程が丁寧に記述された。つまり、認知的不協和の事態がどのように生じたかの説明である。彼らは何度もはずれる予言に適切な説明を求め、予言が正しいことを確認したいがために、単なる少年の訪問者を宇宙人の訪問だと信じ込んだり、それまでとは違って、社会的支持者を求める傾向が現れはじめたことを指摘している。しかし、予言が決定的に外れた後、彼らはその説明を模索するがなかなか適切な解釈が見つからなかったが、結局には、「我々の信心ぶりによって、神がこの世の破壊から救ってくれた」という解釈がほとんどの信者に受け入れられ信じられるようになった、と著者は記述する。

 第6章「成就しなかった予言と意気盛んな予言者」では、予言がはずれてしまった信者たちがいかなる行動を取ったのか、すなわち、大きな不協和事態に陥った人々がいかにしてその不協和を低減していったのかを説明している。彼らは、「準備のある者にだけ伝える」といったそれまでの消極的な布教とは正反対ともいえる積極的で熱狂的な布教を行うようになった。すなわち、彼らは、神によって救われたのだとする信念を、マス・メディアなどを通じて大々的に公表して誰彼なく納得させようとしたのであった。また観察者も含めて彼らを訪問する者は、極めて好意的に扱われ、強く社会的支持を求められたのであった。これは認知的不協和の理論でいうところの情報の選択的接触に関する行動である。また、信者たちは最近のニュースに注目しはじめ、今後起こりうる大変動を警告する立場をとるようになった。すなわち、彼らは新たな予言を持つに至り、新たな活動を開始することになったと、記述されている。

第7章「予言のはずれに対するリアクション」では、個々のメンバーに焦点をあて、それぞれ信者が予言のはずれに対してどのような反応をしたかを観察分析した様子を記述している。それによると、中心的メンバーは、予言がはずれても動揺することなく確固たる信念を持ち続けた。あるいは、ひどく狼狽したが、グループの正当化がなされるとその説明をすぐさま受け入れた。興味深いことに、予言の日の前には疑いをもっていたと推察された人々に中に、予言の大失敗後、グループの信念にあらためて確信を抱くようになった者もいたと記述されている。そしてまた、他の信者と接触のなかった信者は不協和を低減できずに混乱し、コミットメントの弱かった者だけが信念を完全に放棄したと記述される。さらに、著者は全体を振り返って、信者の布教活動がいかに予言の大失敗を契機に変化したかを、パブリシティへの努力、個人的な布教活動、信念の秘密保持という観点から考察するとともに、予言が外れた後も予知が持続するという追加的に発見されたことについて考察する。

 第8章「ひとりぼっちで渇ききって」では、周辺的な信者が信念に疑念を抱いたり、放棄していった様子を記述する。ここから明らかにされたのは、予言のはずれに対する正当化を正しいものとして受け入れるためには、社会的支持がいかに重要性であったかということである。すなわち、社会的支持は、不協和低減の開始に必要な条件であることが主張される。このことは、現在研究がほとんどなされていない脱カルトの手法を考えるときにも示唆深い。

 そして、「エピローグ」では、信者グループが離散することになったいきさつについて簡単に述べられる。そして著者は、彼らが布教者として拙劣であったことを指摘し、最後にこう結んでいる。「もし、彼らがもっと有能であったならば、予言の失敗は終焉ではなく、始まりの前兆であったかもしれないのである。」著者の指摘どおり、この事例からおよそ50年経た現在、彼らのような予言をもつ教団は、いわゆる「マインド・コントロール」技術を身につけ、まさに著者のいうところの“有能な布教者”となっているのである。現在、この事例と同じような世界の破滅を間近に予言する教団は、何度も決定的な予言をはずしまくってきたにもかかわらず、教団は衰退しないどころか、優勢を誇ってさえいるのである。

 さらに、著者は「方法論に関する付録」と題する章を最後に設け、この研究の問題点と特徴を指摘し、社会心理学研究のありように議論を投げかけている。たとえば、この参与観察研究では、観察者はグループの同意を得ずにこっそりなされた研究であるということ、潜入するためにいくつかの偽装をおこなっている点である。また観察者のグループへの参加が彼らの信念を意図せず強化していしまうなどの影響を与えたこと、標準的なテクニカル・ツールが用いることができず、記録を取ることにも困難がつきまとい、観察の厳密さや系統性においてはやむなく完全にはできなかった点である。評者の見解では、問題点は説明に留意する点として認めものであるが、学生を用いた安易な質問紙研究や実験室実験、ましてや場面想定法では得られえないこのようなエキサイティングな研究に脱帽するしかない。本書のような研究は、まず誰にもまねができないであろうが、少しでも近づきたいものだ。方法論に縛られて研究テーマを決めるなどの本末転倒したことだけはしないようにしたい。また、われわれは、せめて自らの研究においては、この事例での現象と同じことはしたくないものだ。つまり、実験での“予測がはずれたとき”、そのときに生じた不協和を解消しようと力を入れすぎて、見当違いの解釈にはならないように心がけたいものだ(しかし、こんな現象を生じさせるほど、設定した仮説にコミットできていないかも)。

ところで本訳書には、訳者による詳しい解説が加えられている。その解説では、訳者は、本書の実証研究の対象となった宗教グループについて、実際の活動、教祖の特徴、教団のカルト的特徴、時代背景といった事情を説明するだけにとどまらず、信念およびそれをめぐる心理的メカニズム、予言・予知・予測の区別、そして本書の著者についてと、じつに広範囲におよんで展開する。そして訳者はさらに越えて、オウム真理教が提起した現代日本社会の宗教事情や若者の心理についても詳しく深い知識で解説する。その中で、評者が特に共鳴したのは、現在の若者は、不思議さレベルでは、超常現象も先端科学技術も同じに見ているのではないかという主張である。現代人が科学もオカルトも「こうしたら、こんなことが起きる」というだけの理解にとどまり、科学的に探求し理解しようとすることの価値を考えようとしない傾向にあると評者は見ている。

西田公昭 (JSCPR任理事・博士(社会学)・静岡県立大学講師 「社会心理学研究」掲載)

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